☆H氏賞受賞詩人・井上俊夫氏が逝って

 時間が経つほどに、井上俊夫氏の死が、ことばにならない無念さで募ります。
 体調を崩しながら、この度の詩集の発行に精力を傾けていた井上俊夫氏の心情を思うとき、その気持ちをあらわす適当なことばが見つからないのです。半月もすれば製本が完成し、詩集を手にすることができたのに逝ってしまったのです。
 最初、表紙、挿画を依頼された今年1月早々の時点では、50篇ほどの作品で詩集を編むつもりだったようです。それまで書きためている30篇余に加えて書きすすめながら、刊行準備を進行するつもりだったのです。
 しかし、昨年奥さんを亡くして、四十九日の法要までの間に自転車で転び鎖骨を折り、歳の所為で完治が長引き、年が明けて春先には風邪をこじらせて二十日ほど寝込んでいました。食欲が次第になくなり、肺に水が溜まりだしました。肺炎を引き起こしていたのです。
 わたしは挿画を依頼され今度の詩集刊行への意気込みを聞いたとき、八十六歳にもなって新作の詩集を刊行する井上俊夫氏の凄い気概なるものをひしひしと感じ取りました。50編にはまだこれから20編足らずは書き足さねばなりません。わたしの絵を添えることで、詩集の品を下げてはなりません。50篇にも及ぶ詩集。それに見合う表紙の絵、それに匹敵する挿画はいかにあるべきかを考えました。で、まずは自分で描ける精一杯のものを、俊夫氏から借りた戦争中や戦後の新聞社などが発行した戦争中中国で撮った写真を集めた本10冊ほどのなかから参考にして、俊夫氏の目に留まるかどうか、3点ばかり試作してみました。自分でもよく描けたと思えるまで、筆を入れ精密で重厚な絵に仕上げました。
 しかしそれを見た俊夫氏は、あまりことばがありませんでした。「いやこれは凄いな、よう描けてる」といってもらえるかと思っていたわたしは、ちょっと戸惑いました。気に入らないというのでもないようでした。軍隊で経験した実際と違って描いている点について、軍隊を経験していないわたしに、いろりろな指摘や話がありました。たとえば、自分らは肩章ではなくて襟章だったとか、銃剣は当然のこと左腰に下げていたとか。三八式歩兵銃のこと、小休止のときの「叉銃」についての解説など。
 それからしばらくして、36篇の詩をプリントした原稿を貰い受けました。全部を読んでみて、自分が描こうとしている絵がこの詩集とひとつになったときを想定してみました。イメージをあれこれ想定しているうちに、俊夫氏がいい反応を示さなかったことが、次第に判り始めました。
 あくまでも表紙の絵も挿画も、主人公の詩の舞台の装置、背景であるべきです。当たり前のはなしですが、詩集は詩が主人公です。絵はあくまで背景であり、引き立て役です。そのための絵でなければならないのです。詩と競い合ってはならないのです。勘違いして、詩集の詩に負けまいとして力みすぎたのです。力みすぎた分、やはり変だったのでしょう。そのことを俊夫氏に言ってみましたら、「いや、おれも圭ちゃんに今度の詩集の意気込みを強調しすぎていったかもしれへん。あの描いてくれた絵だったら、詩が負けてしまう」などといっていました。負けるなどとは、わたしへの気遣いであることは言うまでもないことです。で、わたしの果たさなければならない役割についての、ふたりの認識が一致したのでした。
 その後、体調を崩して二十日ほど寝込んだ結果、もうこれ以上は書けない、いいたいことはすでいい尽くした、とわたしにいってきて、これまでに書きためている36篇で一冊にし、詩集の中身は十章になるので挿画もそれに見合うよう準備して欲しいとのことでした。残っている体力で、詩集の刊行までを乗り切りたいとの想いであったろうと思われます。
 それからは、章ごとにどんな絵を描くかは相談しながらすすめました。自分の二十歳のときの写真を参考に、俊夫氏の若い肖像を描きましたが、ふたりがこれは写真を使ったほうがいいということになりました。そのほかは、事実と違った描写についての指摘以外、絵については一切わたしに任せて自由に描かせてもらいました。
 8月8日の午後、かもがわ出版の湯浅俊彦氏が俊夫氏宅に来られて、俊夫氏と出版についての打ち合わせをされるのに、わたしも表紙の絵、挿画を持ってご一緒しました。俊夫氏はその時、自分では寝起きが不自由なため、ベットで対応していました。自分のPCで詩集全編、あとがき、奥付を入れたCDを、湯浅氏に手渡ししていました。その時、「この分なら90歳までは生きられると思い込んでいましたが、高齢になってひとつつまずくとそれがもとでとんでもないことに、ガタガタと落ち込んでしまいますな」といっていました。
 その後、二、三度のゲラ刷り、校正のやり取りがあり、自分で何とか校正していましたが、養護老人ホームに入ったあとは、「えらい世話をかけるけれど、圭ちゃんに任せるから、あとはよろしくたのむわ」というようになりました。10月11日午後1時半過ぎだったと思いますが、表紙や帯・扉などの細部をかもがわ出版・湯浅氏と合意した旨を、俊夫氏の携帯に報告しました。「今回はえらい世話かけたな。ほんならたのむわな」とことば少なく電話はきれました。これで、自分がえがいたイメージ通りの詩集ができると確信していたのだと思いまっす。わたしと交わした最後のことばとなりました。しかし張り詰めた糸がぷつり切れたように、その丸4日後、あの世に旅立ってしまったのでした、『詩集 八十六歳の戦争論』を手にすることなく、しかし残された時間ぎりぎり使いって、詩集刊行への手立てはすべてやり遂げて・・・・、逝ってしまいました。
 もうすぐ詩集が出来上がります。井上俊夫のイメージ通りの詩集に仕上がっていますよう念じています。
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