★65周年目の終戦記念日

 今日は、終戦から65周年日に当たります。
 65年前の今日、あの日もよく晴れた暑い日でした。
 むらの氏神様の神社境内で、わがむらの1年生から6年生までを集めてふたりの先生が、教科の補習を含めて面倒を見てくださっていました。(夏休みのはずなのに、なんでだったのか、)。わたしは6年生でした。むろん国民学校です。
「今日は、ラジオで天皇陛下御自らのお言葉の放送があるから、早く帰って拝聴するように」との指示で、昼前早く帰されました。
 8月6日や9日のヒロシマナガサキに落とされた新型爆弾(原子爆弾)のことは、不十分ながら新聞などで知らされていて、日陰に身を隠したり白い服装をまとったり、直接爆弾の閃光を浴びなければ大丈夫などと噂して、帰り道には、小走りに鳥居の柱に隠れたり、軒つたいに走って帰ったのを思い出します。
 家に帰ると、母が糊のきいた開襟シャツに着替えさせてくれ、ラジオの前に妹と弟の3人で正座して放送を待ちました。
 天皇の言葉は、ラジオや録音の所為もあり、6年生の胸にはすんなりと落ちませんでした。わたしたち子ども3人の他、母と当時京都に住んでいた母の妹夫婦もたまたま来ていましたが、放送が済んでも浮かぬ顔をしていて、「お言葉」の真意が掴めてないふうでした。互いに「最後まで戦う」といわれたと確認し合っていました。
 午後になって次第に、近所の人たちが、三々五々集まって戦争は終わったんや、負けたんやという情報を共有するようになりました。夕方、役所勤めの父が帰ってきて、戦争は負けて終わったことを告げ、そのための天皇の放送だったことを知りました。
 その夜は、それまで覆っていた電灯の周りの、燈火管制の丸い筒状の黒い布を取り外しました。長い間、黒い筒状からわずかに落ちる畳の上の光とわずかな反射で強いられていた暗い部屋が、一気に部屋いっぱいに光が満ちあふれました。思わず「ウオー!」と叫びましたことを覚えています。
 この日を境にして、乾いた砂に水が吸い込まれるように、軍国主義一辺倒に代わって、急速に戦後民主主義が日本国中に浸透する様を象徴しているかのようでした。
 天皇のため、お国のために命を捧げることを強いられて、死を覚悟していた国民学校6年生は、始めて人として生きる意味を自覚し始める貴重な第1日となったのでした。