★詩「あの夜の小母さんの想像力」

B29の編隊が幾夜も紀伊水道を北上飛来して暗い街に焼夷弾の雨を降らせると、大阪の空にはいくつもの火柱が立ち、空を焦がして神戸の街は燃え上がり、和歌山の遠い空はあかあかといろどられていった。
今夜この辺りは空襲から免れたと察知した大人たちに交じって、寝屋川の堤防に出て夜目に燃え盛る様を見守った国民学校6年生は、焼け落ちる家をあとに母や兄弟姉妹とあの火の海のなかを逃げ惑っている、まだ見ぬ子らに思いを馳せて小さな胸を痛めると、しばらくは歯の根が合わず寝床に入ってもなかなか寝付かれなかった。それでも小国民国民学校生は天皇陛下のためお国のため、早く大きくなって出征兵士となって米英を撃滅するのだと決意し死を覚悟していたのだった。


いつの夜だったか寝屋川の堤防で街の空襲を遠見していた人の中に、焼夷弾が落ちて火柱が上がるのを見ながら、
「やあ、きれい」と小声ながらいった小母さんがいた。
小さくない衝動が国民学校生の胸にも届いた。
小母さんは周りの人から詰られ、むらの役員からも叱られて、いまにも泣き出しそうになっていたのを思い出す。
あの小母さんは、あれからあの夜それでも眠ることができたのだろうか。その後あの夜のことを思い出すことがあったのだろうか。


あらから60年。
小国民も出征兵士兵士にならなくて胸なで下ろしたが、ふたたび戦争しないと宣言した憲法の下で、イラク自衛隊を派兵した国の方策を案じながら、あれこれ目配りし一喜一憂する老後の日々を送っている。


先日むらの公民館で、件の小母さん享年93歳の葬儀があった。葬儀の受付に、むらの役員だった人の息子さんが親父そっくり、むらの役員で座っていた。祭壇には少し若めの小母さんの肖像写真が飾られていて、あの夜の遠目の空襲の光景を「きれい」といった真情を問い質したが、緊張気味の小母さんは正面を見つめたままだった。
   

寝屋川市職員労働組合機関誌「こだま」No.236(2004・7)掲載分・添削転載。
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