★「寝屋川市駅前にて」

「寝屋川市駅前にて」

 寝屋川市職員労働組合機関誌「こだま」2004年7月号(No.236)に掲載された、駅西側の小さな広場で取材しての絵である。何処ででも見られる鳩の群れの図だ。鳩は他の鳥と違って人への警戒心が希薄である。長い経験で、人は危害を加えないと認識しているのだろう。もしやDNAに組み込まれているのだろうか。*1
 鳩は平和のシンボルとして扱われるのは、オリーブの葉と共に、旧約聖書ノアの方舟の伝説から来ている。 また「ピース」といえば、敗戦の翌年・1946年1月に国内で発売さいまも継続発売中で、喫煙家に人気のあタバコの名前である。戦争が終わり平和を願っての、日本専売公社がその箱のデザインをアメリカのデザイナーのレイモンド・ローウィに依頼し、高額のデザイン料を支払ったことでも話題になったのを覚えている。箱のデザインもオリーブの葉をくわえた鳩の図で、当時、新鮮で優れたデザイン性に感心した。とても高級品で高額だった。
時に、「わたしはタバコを六年生でやめました」などといって笑わせることがある。戦争が終わったのが六年生の夏、たぶん晩秋の頃だったと思う。家から少し離れたところに、家族同士で親しくしていたAさん、Nさんとわが家の共同の防空壕があった。学校から帰って、当時父がとても大事にしていたタバコをくすねて、防空壕で吸ったのだった。たぶん友達と一緒だったと思うが、誰とだったかはっきりは覚えてはいない。それまでも面白半分に吸ったりしていたので、甘く見てかなり吸ったのだろう。まもなく辺りが廻りだし、気分が悪くなり、家に帰っても本当のことを両親には言えず、気分が悪いといって、夕食を食べずに床に就いたのを覚えている。
 父はヘビースモーカーだった。まず起きる前に寝床で一服吸い、ご飯が済んでは吸い、人と話す間中タバコは離さない。優に一日に100本は吸っていたと思われる。だから、敗戦前後は大変だった。その上気管支が弱かったので、タバコを最初の一服吸ったとき、必ず苦しげに咳き込むのだった。あんなにまでして吸わなくてもいいのにと思った。二度三度、咳き入って失神して畳の上に倒れこんだこともあった。酒も飲んだこともあり、成人病を一手に引き受けた格好で、58歳と10ヶ月余りで亡くなった。
 そんなことがあれこれ反面教師として、わたしの脳裏に焼くついていたらしく、大学生時代と30歳台半ばに少し吸ってみたことがあったが習慣化しなかった。いずれの場合も、タバコを一箱買っても、最後はポケットでくたびれた格好で残ったりした。よほど、防空壕での一件と父の喫煙の様が、マイナスにインプットされたのであろうか。で、タバコは生涯で計350本ぐらい吸ったかなというところか、確信があるわけではないが、それも吸うのではなくふかす程度で。
 話が鳩からタバコにまですすんでしまたった。以下に鳩を詠んだ「こだま」に掲載した詩一篇を転載する。

*1:絵は水彩紙にアクリル画・無断転載お断り