★正月明けに思い出すこと(1) 

 正月が明けた今頃になると、思い出すことが2件あります。
 1件目。(2件目は明日に)
 2004年1月9日に、大阪府美術家協会(以下府美協と記す)の委員会があり、出席しました。
 この年は、府美協が創立30周年を迎える年であり、記念事業や記念誌の出版などが予定されていて、多忙な一年の始まりでした。わたしは、記念誌編集委員会の責任者でした。
 その委員会の帰りに、知り合いの個展を見に行こうと西中博さんと連れだって出ましたが、事務所のある建物を出たところで、「おれ、倒れたらな、救急車呼んでや」といいわれました。かねがね体調が優れないことは聞いていましたしけれど、そんなに差し迫った様子もなく、ちょっと過ぎたる冗談かと思っていました。
 15日に記念誌編集委員会が開催されましたが、西中さんご本人から、欠席させてほしいとの電話連絡がありました。
 しばらくして、入院されたとの知らせを受けて、奥さんにお見舞いに行きたい旨を申し上げましたところ、呼吸困難の発作が続くので咽頭を切開したとのこと。様子を見てからということで、事態の進展の重大さを知りました。
 それでも、西中さんのことだから、早晩回復され闘病報告を聞かせてもらえるものと、回復を祈願していました。その矢先の1月29日の朝、令息で彫刻家の良太君から、「父が亡くなりました」との電話を受けました。わたしは事態の把握に戸惑い言葉を失っていました。思い返せば、9日は思いのほかシンドかったんだ、もっと気遣うべきだったと悔やまれました。
 そのあとで発行された「府美協ニュース」89号に、わたしの「西中博氏の急逝を悼む」という一文が掲載されました。以下その一部を転載します。
"「こんなに早く逝くなんて、本人が一番驚いているでしょう」と奥さんの言葉である。わたしとて同感であり、西中氏早過ぎる死は、痛恨の極みであり信じがたく、残念の想い一入である。長身の氏の仕草と語り口は、わたしの記憶中でいつまでも顕在であり続けるであろう。絵描きらしい絵描きがまたひとり逝ってしまわれた。
 互いに意識して出会うことになったのは20年余前、ともに参加することになった大阪美術家革新懇話会の創立時である。氏は大学で「哲学」を学ばれた身でありながら、美術家を志された希有な才能の持ち主で、若くして自由美術協会の会員とし活躍され、いわば試され済みの絵描きさんであり大先輩格であった。わたしは、京都美大を中退し青年運道・文化運動とまわり道して、ずいぶんと遅れて来た絵描きであった。
 経てきた道の違いはあれ、画業を生業としながらともに歩んで親しくしていただいた。互いの足らずを補い合うように、府美協、アート・ラボ、新作家美術協会、美術家革新懇話会など、ともにちからをあわせ、昨年(2003年)には、NO WARアート大阪展開催にも努力した。
 ときに意見の相違が生じて互いに譲らず、夜中まで長々と電話でやり取りすることもあった。目先のことにこだわり出口を見失っているとき、氏は原理・原則や理念に立ち返って現状を整理し、諄々に諭され進むべき道を示す役割を担われていた。温かい人だった。氏の発言で出口が見つかり、納得してすすむことができた場面が何度となくある。思い出は尽きることがない。云々”
 今年は氏の七回忌です。奥様も先年なられた由、ともにご冥福をお祈りします。ちなみに、西中さんはわたしより2歳年上でした。死亡に至った原因は、急であったために解明に至らず特定されずに多臓器不全とか、だったと記憶しています。
 西中氏がいまも健在ならば、府美協のあり様もいくらか違ったように、あるいはわたしのこれからの生き方にも、いろいろと助言していただけたように思うのですが、・・・・・。
____________________________